SHIMIZU_NORIAKI

基本的にメモ代わり

異なるコミュニティの価値観を尊重する政治の必要性

治を語る際に、近代社会に否定的な人々が多いという前提がない状態では、意味がないと言われていますね。例えば、だんじり祭りで人が死亡するという話題を取り上げる場合、多くの人は「祭りで人が死ぬのは悪いことだ」という近代社会の価値観を前提として話す傾向があります。

ただし、一般的な人々は特定のコミュニティに所属しており、そのコミュニティ独自の価値観を持っています。例えば、村の価値観が個人の所属先であり、それが近代的な価値観よりも優先されることがあります。他の村との交流のために、人々は渋々近代的な価値観を使用することもありますが、それを心から信じているわけではありません。

この点を誤解すると、「近代的な価値観に基づいて作られたルールが多数派の支持を得られず実行不可能になる」といった事態や、「全員の賛成を得て作られたルールなのに世の中に悪影響が発生し始める」といった状況が生じる可能性があります。

実際、近代的な価値観に完全に同意している人々は少数であり、多くの人々は「自分の活動を妨害しなければどちらでもいい」と考えている人が約50%いるとされており、約40%の人々は「やや反対~反対」という意見を持っています。そのため、重要な場面(例えば選挙)では、近代的な価値観に照らすと考えにくい候補者が選ばれることもあります。

以下、具体例を用いて説明いたします。

A村人:「B村のルールよりも近代的な価値観の方が優れていると思う」
B村人:「C村のルールよりも近代的な価値観の方が優れていると思う」
C村人:「A村のルールよりも近代的な価値観の方が優れていると思う」
全員:「ただ、自分たちの村の価値観が最高だと思っているけれど」

そして、次のような事態が生じたような事態が生じます。

チー牛:「村のルールは全てクソだ!近代的な価値観が最高だ!」
A村人:「お前を殺す!」
B村人:「お前を殺す!」
C村人:「お前を殺す!」
チー牛:「キチガイが群がってきてボロクソに叩かれた…」

このように、チー牛のような異なる価値観を持つ個人は、それによって他のコミュニティから排除されることがあります。しかし、普通の人々は所属しているコミュニティの価値観を持っているため、近代的な価値観よりもそれが優先されます。彼らは他の村とのやりとりのために近代的な価値観を一時的に「使用」することもありますが、それを心から信じているわけではありません。

この認識を誤ると、近代的な価値観に基づいているはずのルールが多数派の支持を得られず実行不可能になるといった状況や、全員の賛成を得て作られたルールなのに世の中に悪影響が発生し始めるといった事態が生じる可能性があります。

したがって、政治を語る際には、異なるコミュニティや文化の価値観を理解し、それらを尊重することが重要です。単純に近代的な価値観だけで政治を考えるのではなく、それぞれの所属するコミュニティの特異性や独自の価値観を考慮に入れることが必要です。